雪の合掌集落屋根の雪下ろし

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今年も雪深い「世界遺産合掌集落の相倉」は、障害者や足の不自由な方には近寄り
難い場所の一つですが、旅に出たたつもりで見て欲しいとい思います。

 私が訪れた時、合掌屋根の雪下ろしをしている人がいました、屋根の傾斜がきつい
ので、見ている方がハラハラして雪下ろしは危険が付き物だと思いつつシャッターを押していた、白川郷と違って「雪の相倉」は観光開発が一足遅れているように思われる。

「合掌造り」の名称は、屋根を構成する主要部材名を合掌と呼び、形式を合掌組みと
いうことから一般化したのであろう。

 現在の相倉集落には、合掌造りの建物が新旧民家と寺、道場、合掌小屋を合わせて
24棟ある。そのうち人が住んでいる民家は11棟で、旧民家の空家が10棟もある。

    合掌造りがすばらしい建造物と云われながら、どこがそうなのか、また地域の風土
性が生かされているというのは何故なのか、その発達過程など住まいの文化性を含め
て相倉の合掌造り民家は、多くのよい資料を提供してくれている。

 当時の当地域の主要産品は和紙、塩硝、養蚕である。和紙は冬季を利用して生産さ
れた重要な換金生業であった。

 戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(1570年)
(元亀元年) - 1580年(天正8年))の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われ
た。
 また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の
下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活
、麻殻、稗殻…など)と、蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの
塩硝を製造した。
 しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)
の輸入によって廃れてしまう。16世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向
一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。

 加賀藩は、外様大名として100万石の経済力をもち江戸幕府の8分の1の力を持って
いたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達してい
たのである。
●当時は前田家の火薬庫として、地図にも載せず隠していた時代があったのだと、
 民宿のおかみさんが話してくれました。

世界遺産相倉合掌造り集落保存財団
理事長  池端 滋
TEL 0763−66−2123

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このブログについて

このブログは、1988年に妻が変形性股関節症の手術を初めて受けた時から、本人が病床日記を記録していたものを、この病気で苦しんでいる人が数多くいます、その為「下肢障害を乗り越えて」と云う本を出版したことから始まっています。

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