COCOONのカード払いで10%還元だそうで、
COCOONには、大きめな書店やCDショップも入ってるので、この際と、まとめ買いしてきてしまった。
キリンジと太田裕美さんのCD
漫画で、古屋兎丸、水木しげるの河童の三平
京極夏彦の邪魅の雫
・・微妙なシュミ。
さいたま生まれ、さいたまの学校を出て、今、さいたまに暮らす者として、
さいたまの話をするブログとしてみよう。
COCOONのカード払いで10%還元だそうで、
COCOONには、大きめな書店やCDショップも入ってるので、この際と、まとめ買いしてきてしまった。
キリンジと太田裕美さんのCD
漫画で、古屋兎丸、水木しげるの河童の三平
京極夏彦の邪魅の雫
・・微妙なシュミ。
優勝間近なレッズの影にかくれて、同市のチームでありながら、思い切りマイナーな大宮アルディージャ。
自力残留を決めてもスポーツニュースの話題にもされないのが、かわいそうなので、せめてブログに語っておこう。
おめでとう。
僕は三浦監督のマイナーなサッカーが好きだ。
今年は少し色を出してここまで順位を下げてしまったが、来年こそはさらにマイナーに磨きをかけてほしい。
シュート1本1−0での勝利の美学を!
いじめだの、自殺だの・・ちかごろ、学校の問題がニュースを賑わしている。
僕の子供ころの学校といえば、各地で荒れ始めたような話も耳にしたものの
まぁ、いたって平和な時代だったと思う。
---
僕は小学生時代を、さいたまの見沼小学校というところで過ごした。
僕の在学中に校歌ができたりしたので、学校ができてまだ間もない頃だったと思う。
小学生の頃、思い出深いのは、小学3、4年のときに担任だった先生のこと。
H先生という、その女性の先生は、大学出の新任だった。
---
小学校入りたての1、2年の頃の僕はといえば、可もなく不可もなく、クラスの中で目立つでもなく過ごしていた。
通知表の備考には、「少し消極的」などと書かれるような子供だった。
それが、3年生のときH先生と出会い、変わったと思う。
おだてられてか、クラスの人気者的なポジションを取るようになった。
クラスの中での歌を創って流行させた。
エンターテイメント系のトップポジションからやがて、クラスリーダーシップを取るようになっていった。
新任でありながら、H先生の学級経営は上手だったのだろう。
クラスの一体感は、かなり強かった。
運動会には、大段幕を作ってみんなでクラスメイトを応援した。
みんなの応援におだてられて、マラソン大会でN君は、おそらく実力以上の力を出して優勝した。
---
そんな一体感のあるクラスでも、いじめられっ子は居たけどネ。
でも、H先生は、それに対しても真摯に対応していた。
---
この頃に、僕についたニックネームで、この歳になっても仲間内からは呼ばれている。
すなわち、僕のアイデンティティが創られ始めたのがこの頃だ。
自分というものに目覚めさせてくれたH先生にはとても感謝している。
さいたま新都心、けやき広場のイルミネーションが今年も始まった。
けやき広場のイルミネーションはすっかり冬の風物として定着した気がする。
けど、今年のそれは、ちょっといただけない。
***
けやき広場のイルミネーションは、4、5年前くらいから行われるようになったかと思う。
そのときの感動は鮮明だった。
こうしたイルミネーションといえば、オレンジや赤の光が中心で、寒い冬に温かみを持たせつつ、きらびやかにというものだと思ってた。
ところが、新都心のイルミネーションは、青と白のLEDを使った幻想的なものだった。
ともすれば、寒い冬をさらに寒々と感じさせる青と白。
それが、斬新だった。
***
それが演出だったのか、低予算ゆえの予期せぬ産物だったのか。
けやきの木にはりめぐらされた、青と白の光。
それは、うれしいほどの感動だった。
***
ところが、そのイルミネーションが話題になるにつけ・・
年々その明かりは、幻想的からは遠くなっていってしまった。
ま、ちょっとおまけのような、オレンジの光のトナカイなどのオブジェも、はじめの年からあったのだが、
そうしたオブジェが、年々大きい顔をするようになってきた。
大きなサンタクロースやら。
青と白しかなかったイルミネーションが、バラエティに富むようになり、幻想的な雰囲気は失われていった。
***
そして、今年。
とうとう、けやきの木々の青と白のLEDもなくなってしまった。
だめだめだ。
さいたまに生まれ、さいたまの学校を出てるが、幼稚園もさいたまの幼稚園に2年通った。
大和田幼稚園という。
いまもあるのかな。
そもそもに、僕の家のまわりには、幼稚園なんてなくて、バスに乗って通ってた。
しかも、当時、スクールバスなんてない。
一般の東武バスで通ってた。
幼稚園のバス停は、紅葉ヶ丘(もみじがおか)だったと記憶する。
バス停の周りには、お茶の木が植え込まれていた。
***
幼稚園の思い出は希薄。
ただ、よく覚えてるのは、いつも昼食の時間になると泣き出していたこと。
昼食の時間になると、おなかが痛いと訴えたらしい。
自家中毒だとも医者には云われたらしい。
神経性胃炎だったかも知れない。
心因性の胃痛だったかもしれない。
いやな幼稚園児だ(笑)。
***
その頃から、今までずっと胃腸は弱い。
小学生のときに、神経性の十二指腸潰瘍にもなっている。
いやな小学生だ(笑)。
***
そんなに、幼稚園が嫌だったわけでもないと思う。
まぁ、記憶がないのでなんともだが。
バスに乗って行き返りは楽しかった。
こんな記憶もある。
バスの中でなんだか僕は浮かれていて、大声で歌を歌いだしてしまった。
風に吹かれて有頂天。
で、ふと我に返り、公共の場で、大声で歌ってたことに気づいて恥ずかしくなってしまった。
ほかに乗客もいたかもしれない。
***
幼稚園児に目覚めた社会性。
思い出話ばかりでなく、たまにはイマドキの話をしよう。
***
さすがにサロマの竜巻ほどではないけれど、さいたま新都心駅 → けやき広場のコンコースには、いつも強い風が吹いている。
明治生命のエルタワーと、NTTドコモダケの間のビル風だ。
たぶん、あのあたりを設計したひとは、あのビル風を計算してはいないのだろう。
エクセルシオールの前の新都心官庁街へ抜けるあたりが、とくに強風だ。
***
僕はいつも通勤に、さいたま新都心を利用しているのだが、寒い季節にはコンコースを通らず、1Fのバス停のほうから駅にちかづくことにしてる。
***
実は、コンコースを通りたくない理由がもうひとつある。
その強風の中、歩きタバコをしてる人間がいるということ。
モラルの欠如どころではない。
非常識はななだしい。
風に乗って、タバコの火の粉が散るの見るに、身の危険すら覚える。
やむなくコンコースで、タバコ吸いを見つけると、風向きを考えて歩く方向を考える。
そういうわけで、風の日は、コンコースをなるべく避けている。
***
さいたま新都心付近の歩行喫煙を禁ずる条例の制定を切に望む次第。
***
さて、とある日のことだ。
いつものように、北与野方面から強風を避けてけやき広場の下、1Fのバス停の方から、新都心駅へ。
バス停わきから駅の改札へあがるエレベータに乗ろうと待っていた。
エレベータの扉が開いて・・
中から火のついたタバコをくわえた人が・・・
唖然。
原っぱの次は、雑木林の思い出話をしよう。
***
原っぱだの、雑木林だの・・子供の頃の東大宮といえば、そんなかんじの自然いっぱいな土地だった。
一応、住んでいた場所は、住宅地。
国鉄が、東大宮駅ができることを約束のもと、作った住宅地だ。
祖父も、父も、鉄道員だった。
でも、カブトムシやらクワガタやら夜になれば、ときには飛んでくることもある。
そんな場所。
住宅と、原っぱと、雑木林が並立してる場所だった。
***
子供らしく、カブトムシとかクワガタムシとかは大好きで、また、僕はといえばB型らしいマニアックな性格上、それら甲虫類の採取では、近所の誰にも負けなかったと思う。
何本かの甲虫類が集まる木を知っていて、夏には毎晩、そんな木々や街灯を巡回するのが日課だった。
***
でも、雑木林の思い出は、そういった昆虫採集の思い出とはちょっと別のもの。
家から二つ目の門を曲がって、病院からの道を少し行った左手の雑木林が好きだった。
木々がうっそうと茂るという感じではなくて、わりと、小ぶりの木が多い。
下草もそんなに茂ってなくて、木々の間を歩き回れる。
木々の間は、昼間でも薄暗い。
そんな雑木林。
ここでも、ひとり遊びが多かったな。
決して、友達が少ない子供じゃなかったのだけど、ひとり遊びも好きだった。
日がな一日、その雑木林の中。
何してたんだ?
珍しげな植物を見つけたり、蕨や野蒜なんかの山菜類をつんだり(山菜類は嫌いで食べれないのだけど)。
山菜は、雑木林の近くのKさん(大きな家)のおばあちゃんに持っていったりした。
***
実際、何してたという具体的な記憶は薄いのだが、雑木林のイメージが鮮明に残っている。
で、
この年齢になって、そんな雑木林のイメージを求めて、雑木林の土地を買いたい・・と思う。
結構、本気で思っている。
買って、日がな一日、木々の間で雑木林のイメージにひたりたい。
そう思ってる。
前回の日記を書いていたら、原っぱの記憶が結構なつかしくなってしまった。
***
子供の頃の東大宮。
結構、そころじゅうに何にも使われていない土地というものがあって、
それが、いわゆる原っぱだ。
家、3、4件ほどの広さで、草ぼうぼう。
生えている草はさまざまだが、小学校低学年の頃は、葛(クズ)が全盛だった。
葛というのは、蔓状の草で、手のひらより大きな葉っぱで、かなり繁殖力がある。
蔓の太さも7,8mmくらいで、手でちょん切ることがかろうじてできるといった強さ。
蔓は、原っぱの上を茂り、高くは子供の背の高さくらいまで蔓の山をつくる。
葉っぱは、山の表面に茂るので、その下は、子供が通れるほどのトンネルになってたりする。
トンネルをたどって、少し空間を見つけて、葛の葉の下の秘密基地。
シークレットベース。
近所の子供らと集まった。
***
僕はといえば、近所の子供らと遊ぶこともあったが、一人遊びも好きで。
一人で葛の原っぱで遊んだり。
炎天下もへっちゃら。
虫取りが好きだったが、原っぱには、バッタとかも多く、大きなショウリョウバッタを発見したり。
そんな一人遊び。
でも、原っぱでの虫といえば思い出すのが、シロコブゾウムシ。
シロコブゾウムシというのは、体長2Cmほどになる、日本のゾウムシの中では大きめな種類。
その名のとおり、白い色をしていて、硬い外骨格に覆われ、羽は退化して飛べない。
これが、なぜか、葛の葉に大発生したことがあった。
で、子供の頃、こいつが気に入って、虫かごいっぱいにつかまえたりした。
むしかごで、うようよと、この虫がうごめいてるのは、さすがに周囲の大人に気持ち悪がれた。
子供の頃以来、てんで見たことのない虫だ。
***
そんなのを思い出した。
さいたまで生まれた。
生まれたのは東大宮という土地だ。
今でこそベッドタウンとしてにぎわう街であるが、昔の東大宮といえば、雑木林だの葛の葉の広がる広場だのも多く、自然いっぱいの土地だった。
電車も昼間は1時間に1本とかそんな場所だった。
一番遠い記憶は何だろう。
子供の頃といえば、まだ、近所の違う歳の子供どおしで遊んだりも普通のことだった。
家のはす向かいの家のお姉さんと近くの小川へ行った記憶。
おたまじゃくしがたくさんいたのを覚えてる。
どんなシチュエーションだったか、そのお姉さんが怪我をして動けなくなった。
僕は大人を呼びに急いで家に走った。
家に戻るのに躊躇があったか、その後どうしたか、あまり記憶がない。
その後もそのお姉さんと遊ぶことがあったのか、そんな記憶もない。
確か、その家からは僕が子供の頃のうちに死人が出た。
それが、そのお姉さんだったのか。
そんな記憶が、遠い記憶として残ってるのはなぜなんだろう。
子供の頃には、もっとそれに付随する記憶の束があって、記憶の反芻をしたりしたのだろうか。
今はもう・・。
さいたまのことについて語るブログです。
基本的にさいたまのことを語りますが、埼玉のことを語ってしまう場合もあるかも知れません。
とーまん(頭慢)
たそがれIT系サラリーマン
ときおり音楽などもする。